えんじゅ:268号

校長先生講話


「自調自考」を考える

(そのCCLIX)


幕張中学・高等学校校長

田 村 哲 夫

 

    三月、弥生、雨水草木萌え動く、菜花の季。渋谷幕張高等学校第二十九期生卒業の秋(とき)。二十一世紀の重責を担う人達が巣立つ。同窓会「槐」の名の下、意気軒昂。     春の鳥 あけぼの楠(くす)を はなれたり    幸田露伴     二十一世紀は激しく変化する多様性〝Diversity〟の社会。     この時代、生きる力を身に付けるのは大変難しく、特に未来そのものである青少年にとっては何が生きる力となるかの見通しがつき難いので、いよいよ苦しく大変な時代であるが、また同時にとても面白い時代だとも云えよう。     現代はデュルケーム(仏・社会学者)が指摘した分業型社会そのものが実現している。この社会では、それぞれ異質の機能を持つ個性的な人材が相互に刺激しあって力を発揮している。個性伸長発揮の為には、「自由」が出来るだけ認められる必要がある。同時に国際化、情報化の進展によって、個人個人の持つ可能性が信じられぬほど拡大する一方、一人ひとりの持つ弱さや利己心も増幅拡大し、人間社会の脆弱性も一層露呈されてくるのであろう。     こうしたなかでは「個と公(社会)」の関係を正しく確立し、その為に自己拘束力を強く育てることが特に重要となると考える。有名な『自由と規律』(池田潔著、岩波新書)に述べられている「自由が成立するには、必然的に自己拘束が伴う」をこれからはいよいよ大切に意識することが求められよう。個人の持つ能力可能性を最大限に発揮伸長させるには「自由」が絶対必要条件となる。その「自由」は「個と公(社会)」の関係において、「自己拘束」をなす文化によってのみ支えられることを考えると、これからの社会に最も求められる力は、一人ひとりの自律的な「自己拘束力」と云える。     キリスト教文化を背景に持つドイツ国憲法前文には「神に対する責任」という言葉がある。この言葉は、本当の自由を獲得するための個人の自律〝自己拘束〟をはぐくむ精神文化を表現する言葉と理解されている。日本ではどう考える。     日本では、現代世界における国家主権を前提に、個人の自由が守られる〝良き社会〟を形成維持する為には、一人ひとりのその理性に基づく意識的努力が求められ、不断にその努力を続ける必要がある。そこでキリスト教的精神文化に代わるものとして「教養と自己拘束力」を考えてみたい。日本では、若者達にとって混迷の二十一世紀に求められる力は、どうやら「教養を身につけ、正しい自己拘束力を育てること」のようだ。「教養を身につける」とは、「人間の自然性を学問芸術によってcultivate、耕して善美高尚な本性(人間らしい)とする」ことを意味している。キケロ(ローマ時代の政治家・哲学者)はギリシャ語のパイディア〝教育・教養〟をラテン語に訳す際にフマニタス(人間の人間たる所以のもの)と訳しているが、このことは「教養」の持つ役割を明確に示している。     最後に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(ゴーギャン)」のテーマの答えとして人類学者エドワード・ウイルソンの説明は面白いので紹介する。「利他行為や倫理観を含む『人間らしさ』は人間の野営地の形成から生まれた。社会と個人の衝突が人間の進化の方向性を決定づけた。」 自調自考生どう考える。

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平成26年(2014)3月5日改訂