えんじゅ:272号

校長先生講話


「自調自考」を考える

(そのCCLXⅢ)


幕張中学・高等学校校長

田 村 哲 夫

 

   平成二十六年六月。水無月。
   畑仕事の目安になる七十二候では、この時期(新暦六月二十日ごろ)を芒種、末候梅子黄なりと云う。梅の実が熟して色づく。しとしとと降る雨が恵みに。稲の穂先にある針のような突起を、芒といい、稲や麦など穂の出る植物の種を蒔くころが芒種となる。古来芸事の世界では、稽古はじめを六才の六月六日にすると上手になると云われている。  
   世阿弥が記した能の奥義書『風姿花伝』には、芸をはじめるのは、数えの七才(満六才)からがいいとある。ただし稽古は「心のままにせさすべし」とあり、そこに「得たる風体」(得意とする芸風)が表れるとしている。また中世末期(約六百年前)には学問開始の年令が数え年七、八才であったことは本阿弥行状記に「七つ八つになれば四書、五経をよませ、素読のときから講釈を聞かせ、歌道躾かたをも少し覚えさせ」とあることからうかがえる。
   学校では、この時期いよいよ中学校の校外研修が終え、スポーツフェスティバルも終了した。

   けふもまたこころの鉦を    うち鳴しうち鳴しつつ       あくがれて行く
                                        若山牧水

   あくがれは、あこがれに同じ。中世時代には「在所離る」と書いたらしい。意味は人の心や魂が、本来あるべき場所から離れてさまよいあるくことのようだ。
   六月のこの時期に、この歌はふさわしい。
   ところで、いじめ問題への対応として安倍内閣は道徳教育の充実を掲げ、二〇一五年度から教科化を目指している。一方フランスでも、二〇一五年度から初等中等教育で道徳の時間の準備が進行中である。
   このフランスの道徳教育は「ライシテ(la laïcité)」の原則に基づくと確認されている。ライシテとは公的なものから宗教を除き、私的領域で信教の自由を保障する原理のこと。ライシテによる道徳教育は、一八八二年のフェリー法によって導入され、フランス国民国家形成の中核を担った。これをマックス・ウェーバー流に云えば宗教を「脱魔術化」したライシテが、国家のイデオロギーとして「魔術化」されたと云えよう。
   そしてこの道徳のその後は一九六八年の五月革命を境にプログラムから姿を消し、以来学校で市民教育はされても道徳教育は遠ざけられていた。この間、フランス社会の世俗化(特に宗教に対して)は進行する。一九七〇年代後半以降そして冷戦終結後は特に世界的な傾向として宗教復興の潮流が目立つ。フランスでは世俗的なものと宗教的なものの関係が再編され、現在ライシテの課題の一つは、政教分離の枠組みのなかで、どう宗教の公共的な役割を認めるかがある。また世界宗教としてのカソリックと強力なムスリム勢力の関係も問題を複雑にしている。但し国民の九割が導入を支持しているこのライシテ道徳教育は、昔の「道徳を義務として教え、善の観念を植えつける」内容ではなく、生徒が自分自身で判断出来るようにすることを目指し、伝達される道徳的価値に批判精神がしっかり織り込まれているのがポイントである。  明治維新期、「国民国家」形成に必要な日本の「徳育」の内容は、一八九〇年の「教育勅語」で示されている。  ライシテ道徳教育の実施に強く意識されている「復古ではない」考えが、日本での道徳教育復活にどのように生かされていくのだろうか。
   批判的精神をどう伝えていくのだろうか。
   自調自考生、どう考える。


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平成26年(2014)6月28日改訂