えんじゅ:121号
(10月14日〜17日)
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台風の西日本接近を気にしながら奈良への旅は始まった。 現地集合 班別研修も仕上げの段階に入る。南房総館山に発した旅も信州木曽路を経て 古都奈良へ。遠方へと活動範囲が膨らむにつれ、班行動のトラブルが増え はじめ、昨年の木曽では動静が把握できないで教員を困らせた者も多かった。 トラベルにトラブルは欠かせない、などと冗談を言う余裕はなく、全員無事 に東京駅を出発するという低次元の目標を課題の第一とせざるをえない ところからの出発である。しかし、一年の歳月は確実に人を育てるものらしく、 さしたる支障も生じないまま、午後一時過ぎ、全員が奈良入りし、研修開始。 ただ、出迎えてくれたのはポツリポツリと落ち始めた雨。これも試練と 言わんばかりに。 雨は上がる気配を見せず、最終日には、とうとう電車を止めてしまう始末。 新幹線に間に合わない班も出てしまったのだが、ここは教員との連携よろしく、 機転の利いた行動で難無く帰途に就くことができた。移動という観点で見る限り、 もはや彼らの行けない場所はないだろう。 しかし、個人テーマに基づく現地踏査という研修本来の目標についての 達成度はどうだっただろうか。雨はできれば部屋の窓からぼんやりと眺めて いたいのが人情。精神的にも肉体的にも人の活動意欲を滅退させる。研修と いう枠の中では、なんといってもやはり最大の敵ではあるまいか。小人数 とはいえ、班活動は集団行動。個人的な動機を調整しあって行動すること 自体がなかなか難しい。それに加えての雨である。 逆境を克服して自らの力となす者あり、安易に流れてアーケードの屋根の 下を目指す者あり。前者は新しい自已に目覚め、後者は夜中に目覚めている。 すべては、個々の意志によって決定された選択である。今彼らに伝えたいのは、 自らの意志によって自らを育んでほしい、ということである。 旅によって また少し成長を遂げた一生徒の私的文章を下に紹介したい。
3−3 笠 間 旅の二日目に訪れたのは、高畑の 新薬師寺、十二神将像が名高い。「新」の一字に込められたのは、聖武天皇の 眼病平癒を願う皇后の一途な思い。「新しい」ではなく、効き目著しい 「灼(あらた)かな」薬師寺である。かつての壮大な伽藍は落雷で失われ、 現本堂のみ今に伝わる。傘を閉じ、薄暗い堂内に入ると、そ十二体の塑(そ)像が ほの白く 浮び上がった。或いは弓を、或いは槍を手に、どの顔も、隆起した頬に激しい 怒りが生々しい。隆々たる筋肉の、邪念を一切寄せつけぬ力強さ。各々七千の 眷属を率いるに相応しい風格には、思わずたじろいだ。所々に残す赤、 緑、金などの天平の色に、かっての壮麗さをうかがわせている。 本堂の柱には、 江戸期に将軍綱吉の母桂昌院が寄贈したという仏画が残る。色褪せた十二神将 に対し、こちらは三百年経て尚、舞うような菩薩や蓮の花が彩りも鮮やかだ。 柱の上方にはなんと、徳川の家紋が仏より大きい。仏の世界に於いてさえ権カ を誇示するようで滑稽でもある。桂昌院は仏教に篤く、他の寺々の保護にも 大きく寄与したが、そのために幕府が財政難に陥り、結果、救われるべき民衆 を苦しめたのは皮肉なことだ。 翌日、降り続く雨の中を訪れたのは西の京、 鑑真開基の唐招提寺。南大門をくぐると眼前に構える金堂。その屋根の西端に 黒く突き出た鴟尾(しび)の心地良い潔さ。これこそあの「天平の甍」、唐から 遥々海を越えたのだ。千二百年という時をも越え、今、私の目に映る。 …遥か昔、盲いた鑑真の心の銀幕にもこの像は結ばれただろうか。遠い故郷 の香りを感じただろうか…。
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