えんじゅ:123号

おめでとうの六地蔵

          高校副校長 阿曽 


ことしは「六地蔵」の親切だが貧しい老夫婦のお話をしよう。

ある年の大晦日、二人は正月のお餅も買えず、売れるものは七個の編笠だけ。おじいさんは それを村へ売りにゆく事にする。
雪の日なので女房はその一つをおじいさん用にと被らせ、残りを背負わせて送りだした。
ところが、一日中売り歩いたが一つも売れない。日は暮れかかる。やむなくおじいさんは 村はずれへと家路をたどった。
ふと目をあげると道端の六体の地蔵が雪を被って並んでいる。
「これはいけないよ!」と叫んで駆けよったおじいさんは、一体ずつ雪を払い編笠を被らせると あご紐も結んだ。
おばあさんは笠が売れなかったのには落胆したが、六地蔵の話をすると「それはさぞ喜んだで しょうね」とにっこりとした、 その夜、二人は妙な物音や歌声で夜中に日を覚した。(何だろう)すると入口の戸が勢いよく 開き、揚きたてのお餅でいっぱいの大袋が、ドサリと運びこまれた。外へでると、編笠を被った 六人のお地蔵さんが並んで「おめでとう」とお辞儀をした、もう元日だった。(昔話六地蔵)

因果応報。楽しい話である。だが信仰だけのお話であろうか。
目的を果たせず無一物で震えつつ家へ向うおじいさんの心境は、絶望的なものであったろう、
それが、雪を被って立ちつくす六地蔵に気づいた瞬間、見よ、白分は被った笠の分だけ恵まれて いるではないか。しかも幸いを分ちあえる余裕さえあるのだ。
おじいさんが直ちにとった行動、それへのおばあさんの共感、この二人の心ばせの故に こそ、石像も生命をえて行動し奇蹟で感謝の意を示すという形でお話を結ぶことができるので ある。

諸君のご多幸をいのります。


自己満足
高校第一学年主任 藤井 

またこの季節がきた。何を書こうかと頭をひねると同時に、今年はどんな年になるか、 しようかと思いを巡らせる。年の区切りだ。

唐突ながら、「白己満足」という言葉には、あまり良いイメージがない。 「他人からどう思われようとも、自分さえ良ければ…」というときに使う揚合が多い言葉で ある。しかし、自分自身の満足感を求めることは、自らを高めることでもあり、けっして 悪いことではない。また、他の人への心配りを大切にする人であれば、他への配慮も 自已満足の内と言える。

誰でも夢や理想をもち、自分自身で満足のできる生活を求めている。投げやりな生活に満足して いる人はいない。他人からの評価も大切であるが、まずは「自己満足」を求めて欲しい。

こんなふうに考えるのも、私の「自己満足」なのでしょう。


「自己を制す」
高校第二学年主任 小河 

お互いに大変になるであろう年が明けた。

年末には高校三年間の授業が終了しているはずである。よく考えると、あと一年の高校生活しか 残っていない。

さて、この一年間は自分の進路の実現に向かつて努力しないといけないことは、お互いわかって いるはず。未知なる世界へ踏み出して行くわけだから、不安があるのは当たり前。 でも、本当に気にしなければいけないのは、偏差値や順位ではなく、白分の怠惰な心に 支配されないことではないでしょうか。あきらめや、なげやりな気持ちになることも あると思う。でも、白分を信じてやり続けることでしか、道は拓けない。「敵は内にあり」と いうこと。お互いに切蹉琢磨して、知的な関係を強めよう。きっと春は来る。

だがその前に、 進級しないといけないのだ!締めくくりを忘れるな。


それぞれの「春」に向けて
高校第三学年主任 菅野 

三年生の諸君にとってこの三学期は新しい世界へ一歩を踏み出すための大切な時間となること でしょう。

今まで私たちは進路の選択を君たちに迫ってきました。これは君たちの前に壁が立ちはだかった ときこそ生きてくると思います。進学や就職の決定が君たちのゴールではありません。 遠回りをしなくてはならなくなったとき、自分の力に疑間を感じたときに目標を見失わずに 歩めるよう、君たちが杜会で家庭で必要とされる人間であることを忘れぬよう進路学習を 続けてきたのです。実は自分が生かせる進路は何通りもあるのです。

今の社会や家庭の状況 がいろいろな影響を与える中で日々努力を続けている君たちが、不安や困難を乗り越えて それぞれの「春」を迎えられることを祈っています。


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平成11年(1999)1月7日改訂。