えんじゅ:127号

校長先生講話


「自調自考」を考える

(そのC XX)


幕張高等学校・附属中学校校長

田 村 哲 夫


平成11年、1999年、21世紀が目睫の間となる。

21世紀末、前世紀の時と同じく、新しい世紀に向けての夢と期待・希望が多く語られている。 そのテーマの1つとして、「自然と環境」問題がある。

6月の日本は北海道を除く全地域が梅雨のなかにある。今年は走り梅雨なしでそのまま本格的 BAIU(梅雨、学術用語として世界に通用する)となった。

雨の少ないカラ梅雨でないことを祈る。カラ梅雨の年には豊作は期待できない。 うっとうしい雨だが豊作には梅雨は欠かせない。

このように「自然」は「暗いことは明るいことでもある」或は「持ちつ持たれつ」の関係を常に 恰も意図しているごとく、その現象のなかで私達に教えてくれている。

もともと地球上では、大気中の酸素は極めて少なかった。藍藻類を始めとして植物が現れてから 環境から二酸化炭素を取り込み、水と日光によってエネルギーを蓄える(光合成)作用により余分な 酸素を放出し、この放出された酸素を利用して、動物が吸収してエネルギーを頂戴して生命を維持している。 さらに動物はその過程で二酸化炭素を放出し、この二酸化炭素を又緑色植物が取り込み、太陽エネルギー (光)を固定して栄養物を生産する。このようにお互い持ちつ持たれつ共存共栄、相互依存の緊密な、しかも 長続き可能な関係を保つものが地球上には存在を許されたのである。

この関係から外れた生物は生存し続けることができず自然脱落していったのであろう。現存する生物はそうして 生き延びてきた貴重な物達と考えられる。

こうしたモノ言い(考え方)が近年特に環境を論ずる際強調されている(エコロジー)のであるが、実は、日本 (東洋)では「自然」についてこのような見方を昔からしていたことを知っていたいものだ。明治期「ネイチャー」 「ナチュラル」という言葉の日本語訳として「自然」という用語を使ったが、この言葉は「無為自然・無一念」 の「自然」だけを取り出したもので、当時西欧的な意味での「ネイチャー」に対応する概念が日本語にはなく、 「花鳥風月」「雪月花」という言い方があった。

西欧流(デカルト以来)自然は、人間が利用する対象、「モノとしての自然」である。これに対して日本(東洋) 的自然は「ジネン」自らある・つまり自分と自然の事物は共有された概念として考えられていた「コトの自然」 であった。この考え方から、 人間を含めた山川草木全てに神が宿られてい、故にその全てを大切にするという文化が生まれていった(進道)。 そしてその神とは「尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳ありて、可畏(カシコ)き物をカミと云う」 (本居宣長)と考えられていたようである。

日本列島には100以上の盆地がありその一つ一つが持つ水系と山野とが人間と一体となって一種のコスモロジー が形成され、こうして日本的自然観が形成されていったのである。21世紀の自調自考の幕張生徒諸君の「自然観」 は如何に。


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平成11年(1999)7月 6日改訂