えんじゅ:132号

新年にねがうこと

          高校副校長 阿曽 


ことしは「舌切り雀」のお話を始めよう。

この話の結末は、意地悪婆さんの大葛籠(つづら)から化物などがぞろぞろとでて、 それで婆さんが心を改め、爺さんや雀と仲良く暮らしました、となる。

別に化物にたべられてしまう形のもあるが、それでめでたしでは無理だし、 爺さんの小葛籠の幸いも半減してしまう。

天罰の理由は糊をなめた小雀の舌を切ったことにある。中世までの炊飯は、 米を煮ながら湯をすくい出してすてる中国式だった。この湯が糊で、 衣類の糊付けに使うとしてもまあ捨てるもの。当時の人なら婆さんのケチと過酷さが理解し易かった。 その他にも意地悪とか悪口とか不平ばかり言う不徳が加わる。

話は飛ぶ。

先月、柔道で十連覇を果たした田村亮子さんが、 「うれしい。でもこれからですので来年も頑張ります」 と優勝直後の挨拶で語っていた。爽やかだった。

連覇は年ごとに苦しくなるはずである。相手に勝つ前に自分に勝てとは歌の文句だが、 何事によらず目標を立てて達成に全力を傾ける。精進する。 行手(ゆくて)の困難や障害は克服されるためにある。―この一途(いちず)さこそ若さの証しであり、 若さの特権でもある。

老いた婆さんはどこかでこれを取り違えた。思い通りにならないのは誰かのせいだ。敵だ。 あたり散らす。孤立する。悪循環である。改心の経路はわからない。ただ、 婆さんが自分に勝ったことは確かで、めでたい。

今や世紀末。マスコミは世の、人の悲惨や背徳を謳うかのように指摘してやまない。 世間は鬼と馬鹿ばかりと言いたてる。

そんな今であるからこそ、若さには一途さがよく似合う。冴えるのである。

ことしも諸君が、それぞれに似合う形で、力をつくして、のびやかに過ごされますように。


期 待
高校第一学年主任 添田 

高一の君たちは、今、どんな思いで新年を迎えただろうか。 少し前を振り返ると無邪気で元気いっぱいだった中学生や小学生の頃の自分を思い出すだろう。 当時は分からなかった「幼さ」も今なら理解できるだろうし、懐かしくさえあるかもしれない。 それだけ確かに君たちは成長を遂げている。 ではこの先はどうであろうか。

現代は先行が見えず、夢や理想を忘れ、目の前のことしか関心を持たない人がたくさんいる。 不安で自信が無く、未来に目を向けようとしない。しかし、誰にも可能性とチャンスがあり、 君たちはこれからそれにめぐり合うのではないか。自分の未来に期待しようではないか。 今年を自分の描く未来に踏み出す年と考えてほしい。そうする中で成長してくれることを 願っている。


「波を逃がすな」
高校第二学年主任 藤井 

「2000年」「高校3年」・・・何かこれまでとは違う年の始まり。 来年度のコース・科目の選択もほぼ終わり、進むべき方向がはっきりしてきた。 あとは歩み(走り)出すのみ。とは言っても「なかなか・・・」という人もいるだろう。 そのような人、まわりの波に乗って欲しい。近頃、友人や学級の雰囲気が変わってきているはず。 それが「波」だ。時には「波に逆らう」ことも必要だが、この波にはぜひ乗ろう。 一度乗り損ねても、この時期にはこの様な波は何度も訪れる。次の波を逃さぬように。

一度だけサーフィンをやったことがある。上手く波に乗れず、波にもまれて怖い思いをしたのを 憶えている。サーフィンが「BIG WAVE」を求めるように、 君たちも「いい波」を逃さず捉えて欲しい。 上手く乗れれば、あとは君の目指す方向へ!


また「春」がくる
高校第三学年主任 小河 

校庭のサクラやイワツツジは秋には不要となる葉をすべて落とし、来るべき時に 備えて淡々とその準備に余念がない。今は小さな芽だけが顔を出し、春の到来を 待っている。君たちの学園生活もまもなく一つの節目を迎えると同時に、その多くは、 一つの目標に向かっての準備で忙しい毎日を送っていることと思う。 でも、深慮の末、自らこの道を選んだのだから、淡々と前進あるのみ。 さて、校庭の木々はたいした世話をしなくても、毎年その現存量を増す。 それは、潤沢な雨量や分解者からの還元物質に支えられているからである。 君たちも家族や社会の一員として生きていることを忘れないで欲しい。 サクラやイワツツジは、春が過ぎると花を落とす。でも、翌年の春には、また花を咲かせる。 そんな春が、もう目の前だ。


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平成12年(2000) 1月19日改訂