えんじゅ:169号
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みんな違って、みんないい 『君よ知るやレモンの花咲く国を、ほの暗き葉陰には黄金色の柑子かがやき、そよ風は青き 空より流れいで、天人花は静かに月桂樹は高く立てり。君よ知るやそを、いぎやかなたへ、い ざともにゆかんいとしのきみよ』 六〇年程前、旅立ちの頃や別れの時となると、ゲーテのこのミニヨンの詩を、別離の宴など で学生たちは声高く朗唱したものです。今、君たちが巣立つに立ち会って、青春の思いを再び 我が胸に、この詩を贈り、心よりその前途を祝します。 そこで今、私の心の中で、くすぶりわだかまっていることを独り静かにつぶやいてみます。 そしてそのつぶやきを耳にして共に考えてみて欲しい、ことがあるのです。 それは、−−−−−−。 アメリカというよりは、強大な権力を纏った一人の人間の手によって、宣戦布告も無く引き 起こされた戦争によって、先にアフガニスタンが破壊され、一年程前からイラクが同じ運命に 遭い、多数の罪の無い人たちが殺され、人間としての尊厳を奪われている、という事実です。 私たちは、福澤諭吉の、″学問ノススメ″ で独立自尊という ことを教わりました。一身の独立無くして一国の独立も無いと 知りました。釈迦が生まれると き、”天上天下唯我独尊″と言 ったと伝えられています。この 言葉は、独りよがりと解する人 もいるようですが、唯一つしか ない我が生命の尊さから一人ひ とりの生A叩の尊さを教えた言葉 として私は受けとっています。 金子みすずはまた ”給と小鳥とそれから私、みん なちがって、みんないい″と、 ”私と小鳥と鈴と”という詩の 中で、生△叩の尊さと美しさを詠 んでいます。 ヒトが人間になるとは 『他者 の心の痛みが分り、他者への思 いやりが持てるようになる』こ とだとも言われています。 私は五人年前、満州で敗戦を 迎え、一年余の難民のような生 活を余儀なくされました。死ん で行く人、殺される同邦を目に しながら、何もできない悲しみ と不甲斐なさを味わいました。 新聞紙上で、人が一人殺される という記東丁を目にするだけで、 胸の痛みを覚えます。ましてや、 アフガニスタンやイラクのよう に、見えない人の手によって大 量に殺される、この不条理、理 不尽に、極限までの悲しみと、 抑え難い怒りにさいなまれます。 武器を持たない、抵抗の術も無 い人たちに爆弾を落せと命じる 人は、原子爆弾を投下して恥じ ない種の人間だからで きるのでしょ、つか、人 の生A叩を奪ってもよい 大義は存在するので しょうか。考えてみて 下さい。最後に宮 柊二の一首を紹介し、 君たちの未来を讃え ます。 ”たたかひを知りたる ゆえに待つ未来、た とへば若草の杏のごと く来よ″ (受験を終 えた人よ) 「自分とは何か」と考えたことが、今まで何度もあっただろう。自分とは一体どういう存在なのかと 思って自分を見つめてみる。しかし、他人になくて自分だけにあるものを 探してもなかなか見つからない。自分の体についても、ごく僅かなことしか 知らない。顔だけを考えても、鏡や写真でみることはできるが、他人と向き合っている ときの自分の顔を自分はみることができない。自分の内部となるともっとわからない。 本当の自分を理解するのはとても難しいことである。「老子」も「人を知る者は智なり、 自らを知る者は明なり」と語っている。 人を知るだけでも並大抵のことではないが、もっと難しいのは自分を知ることであるということだ。 しかし、いくら自分自身に固有のものを求めても自分は見えてこないだろう。 自分の中に固有のものを探すのではなく誰にとって自分はどんな存在なのかと考えるべきなのである。 それは自分がもともと他人との関係の中でしか自分とならないからである。 自分だけを考えるのではなく、具体的な誰かにとっての自分を考えなくてはいけないのだ。 したがって、「自分とは何か」という問いに対して、一般的な答は存在しないのである。、 私たちはそれぞれの人生で人と出会い、その特定な人の中で自分がどんな意味のある部分を 占めているのかと考えるべきなのである。高校を卒業してこれから環境が大きく変わっていくだろう。 しかし、どんなに環境が変わっても、人との出会いを大切にして、できればその人にとって かけがえのない人になってほしいものである。
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平成16年(2004) 5月10日改訂