えんじゅ:130号

大和路探訪
〜中三修学旅行〜(奈良)


奈良修学旅行を終えて

「こんなに沢山の柿をいただきました。みんな食べて下さい。」ビニール袋にいっぱいにつまった柿を手に、西吉野村へ柿がりに行っていた生徒達が顔をほころばせながら宿へ帰ってきた。五月の連休明けに研修準備のスタートを切った中三学年は、三泊四日の研修をどのようにしたら中味の濃いものにできるかに苦心した。体験学習の導入もその一つである。現地を視察する中で困難は当初から予想されたが、地元の農協 や西吉野村の関係者の皆さんが受け入れに好意的だったことから、柿がりが実現することになった。この話題は朝日新聞奈良版にも掲載され新鮮な感動が広がった。 生徒が自主的に設定したテーマも幅広くユニークなものが多い。これからまとめあげるレポートの完成が楽しみである。放課後遅くまで残って作った研修だより「奈良漬」は十八号を数えた。四日分の行程表のとりまとめは忍耐のいる仕事であったに違いない。研修数日前まで研修のルール作りに激論を交わしたことも終わってみると、 それなりに意味のあることだったと思う。ともあれ陰で黙々と研修を支えてくれた人など多くの人たちの協力を得て無事に研修を終えることができた。奈良・大和路の旅を終えて、何を一人一人がつかんだだろうか。 一つの旅が終わり、また新しい旅が始まろうとしている。奈良研修で学んだことを糧 として、充実した日々を送っていきたい。

  「奈良研修」  

     3年2組 入屋 

昨夜、興奮で眠れなかった私は、新幹線に乗るとすぐに、睡魔におそわれた。友の 笑い声、叫び、列車の震動を夢の中の出来事のように聴きながら、京都駅近くまで 眠ってしまった。

目覚めると、重なり合う山々が目に飛び込んで来た。秋の陽射しを受けて、くっきりと陰影をつくりながら、収穫間近な、豊かな田園を抱き込んでいた。

山容がくずれると、すぐに京の町並みが目に入ってきた。

京都で乗り換え、各駅停車で古都奈良へ向かう。 収穫を終えたばかりの田園のあちらこちらから天へ向かって白い煙が立ち登っていく。神の恵みに感謝する人の心をとらえて立ち登るのであろうか。煙は風に揺らいで低くたれこめた雲の中に吸い込まれていくようだ。車窓に時折雨足がかける。JR奈良駅につくと薄日が射して来た。夕食までの時間を利用して鹿で有名な奈良公園に向かった。 豊かな緑の中に目のさめるような赤い彼岸花が咲いていた。久しぶりに見る彼岸花ではあったが、古都の地で見ると侘しさ、妖しさより華やかさが極だつように見えてくる。

たわわに実った柿の実が、築地の屋根越しにのばした枝をたわませている。すぐ手の の届くところにも、都会では味わえない情趣がある。鹿は慣れなれし過ぎる位身近に いた。期待するものがこんなにも身近に、手の届くところに存在することの不思議さを感じた。目に映る全てが穏やかに、懐かしく心に迫ってくるのだった。ここちよい刺激は一日目の長旅のせいもあってベッドに入るやすぐに深い眠りにさそわれた。二日目は岡寺に向かった。岡寺という名の如く、山道はどこまでも昇って、山頂にその寺はあった。行けども続くと思われた山道ではあったが、「牛にひかれて…」の私は仲間の元気さに助けられて仁王門までたどりついた。岡寺は、東光山真珠院竜蓋寺。真言宗豊山派の寺で、西国三十三カ所観音霊場の第七番札所である。 厄除け観音として信仰が厚く、江戸時代(一七七二年)三月、本居宣長が岡寺を訪れて、その参拝客の多さ、混雑ぶりに驚いたと「菅笠日記」に書いている。私達が訪れた時は、参拝客は少なく、境内に立つと、風が木々の梢えを吹き抜けていく音、水の流れ落ちる音、鳥のさえずりが静寂さを知らせてくれる。岡寺にまつわる義淵僧正の縁起を思い出しながら、私はふと、不思議な思いにとらわれた。夢を見ているのだろうか。あまりにも静かな時の流れの中で、自分が今、どこにいるかわからなくなってしまったのだろうか。心の中に何か爽やかな風が吹き、流れていったのは確かである。

三日目は法隆寺を訪ねた。境内は、修学旅行のシーズンなのか小・中・高校生の一団 が渦巻になって建物から建物へ移動していく。少々がっかり…。班別行動の有難さが 身にしみた。


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平成11年(1999)12月 2日改訂