えんじゅ:143号

校長先生講話


「自調自考」を考える

(そのCXXXY)


幕張高等学校・附属中学校校長

田 村 哲 夫

 3月、21世紀最初の卒業生・渋谷幕張高16期生を送る。「21世紀からの留学5期生」である。21世紀は知識社会だと云われている。この場合の「知識」とは何だろう。

 私達の国では、今21世紀に活躍する人材育成の為の教育改革に大童である。

 大学では、明治以来の伝統的な講座制度の弾力化からはじまって、17歳入学、大学3年修了からの大学院入学等一律主義を改め、個性的、独創的人材育成を目指し、国際競争に堪える才能を開発する改革が試行される。そして中学校、高等学校では、知識の詰め込みに終始せず、自ら学び、考え、主体的に判断して問題を解決できる力などの「生きる力」を養成する=自調自考=ことをねらいとした学校生活がおくられることを目指している。こうした改革への試みについて知識の中身の問題として今回リテラシィ=Literacy=という言葉を考えてみたい。

 リテラシィという言葉自体は教育学において古くから使われている用語で、一般には言語の読み書き能力を、広くはその言葉の背景にある文化全体の理解力を意味する。一方、学問の変革進展の早く広い時代には、言語の内容が刻々と広がっていき、ただ意味を知っているというだけでは、すぐに役立たなくなってしまう(知識の陳腐化)。それ故特に現代では「リテラシィ」をどう考えるかが大事なことになる。

 日本語にせよ、英語又は他の外国語にせよ、言葉を使うということは、読み・書き・話・聞きそして見ることを意味する。

 読むとは、著者がいて、その著者がさまざまな人の考え方、生き方を表現し、それと格闘することである。書くとは、書く対象と自分が向き合っている状態、あるいは書くことによって、自分自身と向き合うこと。そして話すとは、他者と向き合うことであり、聞くとは他人の言葉に耳を傾けることであり、これも他者が介在している。更に見るというのは、他者が形に表したモノを自分に引きつけて見ることであり、内省というかたちでは、自分の心のうちを見ることにもなる。いずれにせよ「リテラシィ」という言葉には、自分が他者や他の世界と向き合う行為が意味として含まれている。つまり「獲得された知識」にとどまらずそれが結果として他者に向く方向性迄もが含まれているのである。

 OECDの調査によれば、日本人の自然科学に対する関心・理解は欧米諸国よりかなり低い(大人対象)。その結果、若者(中高生)の理科離れ、学力低下が惹起されていると云って、日本の「科学リテラシィ」が低いという云い方がなされている。又、科学は「数学」或いは「自然言語」で自ら記述するだけではなく、その意味を理解し、科学的な思考方法をとることが出来る、つまり「科学」という文化の有り様を身につけていることまでを含むことが「科学リテラシィ」の内容となる。自調自考の幕張生諸君は「学ぶ」・「知識」をどう考えているか。


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平成13年(2001) 7月19日改訂