えんじゅ:195号


高1 長崎研修

10/9〜11



 本校では二年目となる高一の長崎研修は、三日間とも天候に恵まれ無事に実地された。
 長崎は古くからの国際交流都市であるとともに、広島と並ぶ被爆都市である。今回の研修では、原爆や平和に正面から向き合い、 「人の思いや痛みを想像できる人、平和を願い行動できる人」を目標に各自がテーマを設定し学習に取り組んだ。
 一日目は、二団に分かれての原爆資料館見学と被爆者体験講話。講話を聴く生徒の表情は真剣だった。「平和のために我々が できることは?」など多くの質問が生まれた。この日、核実験が実地され、我々は被爆者の口からこのニュースを聞いた。
 二日目は、長崎市内での班別自主研修。親しい仲間とともにテーマに沿って平和学習を行った。夕方、バスで佐賀県に移動し、 嬉野温泉で疲れを癒した。
 三日目は、吉野ヶ里、九州国立博物館、大宰府を見学し、福岡空港から帰途に着いた。
 生徒が長崎で感じた様々な思いは論文にまとめられている。
 



「平和のケア」を考える




 1H 積田

 世の中、大抵のものは放っておくとダメになる。車や制服、友情や愛情も長持ちさせるには日常的なちょっとしたケアが必要だ。
 「平和」も同じ。放っておくと気づけば「ダメになっていた」なんてことになりかねない。そんなケアを怠った人々と、班行動で 訪れた原爆資料館で遭遇した。彼らは大声を立て、展示品に「グロい」「キモい」と暴言をあびせた。開いた口が塞がらなかった。

 これは、史実の理解もなしにただ「反戦」「核放棄」と唱え、戦争を伝えてきた平和教育の表れだと思う。 こうして日本人は歴史としての戦争に無知となってしまったのではないか。戦争を知るには平和を知るのが大前提となる、ということだ。
 ただしここでの「知る」は、ある知識を得るという意味にとどまらず、自ら考えることとも同義。だから極言すると、平和を知る 上で被爆者体験講話には注意を要する。それがいくら心に訴えても、あくまで彼ら個人にとっての戦争であり、「戦争の全体像」 とは違う。講話から教訓めいたものを得て満足するのは誰でもできるが、今を生きる私達にこそできること―――私的な体験を普遍化し、 歴史と重ねることが何より大事なのだ。そうして初めて私達も戦争、平和を「知る」のだから。

 私の目で見、耳で聞いたことを単なる「体験」でなく「経験」に昇華させたい。事実と現実から逃げず、問題の本質を見つめたい。 こんな風に少し意識を変えてみるだけで、それは「平和のケア」につながっていくのではないか。そんなことを考えた長崎研修であった。
 

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平成18年(2006)11月25日改訂