えんじゅ:281号  


校長先生講話

 

校長先生講話

「自調自考」を考える

そのCCLXXII

幕張中学・高等学校校長

田 村 哲 夫


 

 平成二十七年五月。立夏末候、竹(ちく) 笋生(じゅんしょう)ず。皐月。
 松尾芭蕉が『おくのほそ道』へ旅立った旧暦の元禄二年(一六八九年)三月二十七日(新暦五月十六日)に因(ちな)んでこの日は旅の日とされている。『おくのほそ道』は弟子曽良との東北・北陸の吟行の旅行日記で「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして行きかふ年も又旅人也」と始まる。
 いかにも五月は新学年のスタートに似つかわしい。
 又、平安時代初期には『伊勢物語』がある。作者不明だが「昔男ありけり」に始まる百二十五ほどの物語と、和歌二百九首を含む作品だが五月の季語「燕子花(かきつばた)」に因む有名な和歌が入っている。


 か からごろも
 き きつつなれにし
 つ つましあれば
 ば はるばるきぬる
 た たびをしぞおもふ
 日本文学史上『竹取物語』と『源氏物語』に至る中間的存在で余情に富む作品として有名な古典。
 五月、校内では八重桜を残しつつ葉桜の緑が競うように「瑞々(みずみず)しく」、フェアリークラブの丹精こめて世話した薔薇(ばら)がいっぱいにほころび出している。
 若緑は松の新芽の緑で、浅緑は柳の新葉のことと使いわけ、日本人はこの時期季節を楽しんでいる。
 ところで、私達はいろいろな人の思想を口から耳へ文字から眼へ伝え、あるときは共鳴しあるときは反撥しながら、みずからの生き方考え方の糧としていく。こうして思想は人々のうちに身を寄せ、人々の思惟と行動に力と指針を与えていく。このように思想は旅をする。然しその思想の旅=経路と起源=に想(おもい)を懸けて思想を受け取ろうとする人は少ない。殆(ほとん)どいないと云ってよいだろう。多くの人達は、その思想の意味=栄養素と云って良いもの、つまり現在の価値=だけを気にかける。
 古典と云われる書物には、ここで云う人類にとって宝物である偉大な思想が残され、表現されている。然しその偉大な思想も、多くの年月の旅の中で、多くの人達によってその栄養素、つまりその時代時代において求められるその時の価値判断にさらされ、いろいろな皿や器に盛られそれぞれの時代においての味が主張されてきている。
 多くの場合、時にその味が権威をもって押しつけられ、実際に本物を読み解き考える前に、その味を知ってしまっている気分にさせられていることが多いので気を付ける必要がある。
 ラテン語のクラシクスClassicusを語源とする古典という言葉は人類の文化にとって決定的に重要な意義をもつ文化、文芸を指すと考えられるものであるから長い歳月のなかで多くの人がこれを利用し活用することになるのは当然である。
 「古典とは五百年後、千年後に爆発する一種の時限爆弾である。伝統とは単に先祖が作った型や技を踏襲することでなく、現代の行き詰まりを打開する秘術として用いることも含まれる。井原西鶴が『源氏物語』をリサイクルすることで、江戸町人文化の起爆剤としたように、古典には時代ごとに新たな息吹きを吹き込まれてきたのである。」(中沢新一『日本文学の大地』)とあるように古典とされる書物には、時代時代の求めに完璧に乗り越えることが出来る優れた知性が秘められているが、それを発見し活用するには、まず「古典」そのものと熟議する必要があろう。面白いがそう簡単なことではない。
 まさに二十一世紀という新しい時代の求めに応じて現在議論されている二十一世紀型スキルやアクティブラーニングといった問題の対応にもこの姿勢は必要である。
 自調自考生どう考える。