えんじゅ:172号校長先生講話 |
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「自調自考」を考える(そのCLXIV)幕張高等学校・附属中学校校長田 村 哲 夫 |
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平成十六年、二十一世紀五年目、六月、日本は梅雨の季節を迎えた。日本の梅雨は、BAIUとしてそのまま学術用語で世界に通用するものだが、六月の日本は、北海道を除く全土で暗くジメジメした梅雨におおわれる。 この気候のような、重く暗い気分が、今日本だけでなく、世界をおおっている。二十一世紀がこれから希望に満ちた明るい展望を持てるとよいのだが。近時、「現代人の精神の闇」が話題になっている。この 「精神の闇」をはじめて文学の主題にした作家は、日本では芥川龍之介であろう。 芥川にとっての精神の病とは、自分が自分であることの根拠が崩れていくことの不安である。自分で自分がわからなくなる。もう一人の自分がいるように感じられてくる。 とりわけ彼は、「ドッベルゲンゲル」=もうひとりの自分がいるという幻想=に悩まされていた。「二つの手紙」 (大正六年)、「影」 (同九年)、「歯車」 (昭和二年) などの作品で、その不安がメランコリックに描き続けられている。 精神の正常さと異常の領域のあいまいさ、そこから浮き上がってくる 「精神の不安な暗部」、このことに特に鋭敏であった芥川は自分の心の闇に目を向け、作品としたのだろう。 確実に、芥川の見ようとしたもの=闇=は、現代人の心にも存在している。一方「カラ梅雨」と言って雨の少ないまま盛夏となると、いやな暗くジメジメしたものはないが、豊作は期待出来ないのである。てっせんや桔梗の鮮やかな青や、濡れた紫陽花の艶やかさは、ジメジメした暗い処でこそ際立つ。 こう考えると 「精神の闇」 の不安におののく心であってこそ、自分のアイデンティティ確立の大切さに気づくことが出来るのではないかと思う。アイデンテイティと言えば、国連元専務次長明石康さんの言葉を思い出す。二十一世紀は、国際化時代である。そこで活躍する人材には、何を要求されるのかとの問に対し、「国籍やバックグランドも違う人達と協力して仕事を組み立てられる人、自分の意思や希望を他の人に伝え、その人の考えもよく理解しながら進めていける人。グローバル時代というのは、それぞれの文化や民族に属する人たちがアイデンティティを自覚する時代でもあって、互いのアイデンティティを尊重するところから寛容の精神や国際交流が生まれてくるのです。」「アイデンティティ」とは、「個人又は多数の人間にとって、自分(たち) はいったい何者であるかという確認と、生き生きと物事に対処していることへの明確な私的意識」を意味している。つまり人は常に自分の 「存在」を必要なものとして証明しようとするのであって、その人の「生きがい」 のある生活を続けるうえでの基本的条件がその人のアイデンティティなのだ。こう考えてくると「現代人の心の闇」に立ち向ってこそ、アイデンティティを確立出来るのだろう。
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平成16年(2004) 7月 5日改訂