平成十八年六月、梅雨の季節を迎える。日本の梅雨はBAIUとしてそのまま世界に通用する学術用語となっている。
北海道を除く日本全土が暗くジメジメとした梅雨におおわれる。
然しジメジメと鬱陶しい梅雨は、明けて迎える明るい夏の陽光を一際目立たせるものともなる。
日本の四季の豊かさと恵みを実感し、心を明るくしてくれるものともなる。
五月の快適なシーズンも終わり梅雨、盛夏を迎える直前の五月尽、渋幕のスポーツフェスティバルが実施され、五月初旬の中学研修行事と相俟って、一学期の大きな行事が終了した。
新装なった人工芝のグランドで、今年は多くの新種目が導入された。集団縄跳のような単純なものでもちょっとしたクラス毎の工夫で勝敗が分かれるのには今さらながら喫驚した。集中と切り換えの良さという本校の伝統が生き生きと感じられる運動の二日間であった。
ところで、画期的な新薬やインターネットのビジネス特許等、有効性や効用に導かれた最新の科学技術に対する日本人の信仰は、今日確固とした信念となっているように思われる。
二十一世紀は「知の世紀」となるという予想は、このような様々の「知」が莫大な富と権力を生み出しているという現代の状況が背景となって、はっきりとした我々日本人の確信となっていると言えよう。
然し、この「知」は、欧州の文化的伝統のなかから生まれ育って来て、今日の「知」となっていることを知っておくことは大変に重要なことなのだ。
つまり、我々人間のまわりには宇宙があり、その宇宙には全てを包む「秩序」があって、その依って立つところを明らかにする「知」を獲得することが、何よりの価値があるのだという信仰が、実はヨーロッパ文化を成り立たせているものなのである。この「知」の力への信仰は、キリスト教的価値観に支えられ、ヨーロッパの文化的伝統の中核となっている。
私達の国、日本は豊かな四季、自然に恵まれているからか、効用がある科学技術には関心があっても、本格的に「知」そのものへの探究心や執念を燃やすことにはあまり熱心でない。
日本の伝統的文化の一つの特徴なのかもしれない。
今春、芸術選奨を受け、取り消された洋画家、和田義彦氏の「盗作」騒動には、こうした文化的背景が働いているのかもしれない。
ドイツの思想家のベンヤミンは、「芸術作品はそれが存在する場所に一回限り存在する。」と述べ、複製技術で作品からアウラ(霊気)が失われる芸術の恐い運命を予測したが、このことは「知」の世界においても、模倣でなく体験や、実際に取り組む基礎的経験の大切なことを示している。
自調自考とは、調べて、理解したつもりになることではなく、実際に自分で書き、計算し、考えることなのだと考えている。自調自考の幕張生よ。どう考える。
|