新別府駅~朽ち果てた夢~

1951年、別府国際観光港が建設されたのに合わせて、別府駅を観光港正面に移設する計画が持ち上がった。しかし、当然ながら駅周辺の住民による反対運動が展開され、移設計画は中止された。
移設予定だった石垣地区ではなおも小駅の設置を検討していたが、北に1.5キロほどの地点に別府大学駅が開業したため立ち消えになってしまった。
そんな新別府駅であるが、地図を見ると今でもその痕跡がくっきりと残る。下の写真は駅跡近くにあった避難場所を示す地図であるが、線路の周りに広がる不自然な空き地とそこからまっすぐ伸びる道路が見えるだろう。

新別府駅の地図

発端の地から

宿からタクシーで移動し、やってきたのは別府国際観光港。この問題のすべての発端の地だ。
ところで、観光港に併設されている交通センターの名前は“港駅”というらしいが、まさか新別府駅を意識してのことなのだろうか?

港駅


国道10号線を歩道橋で渡ると目の前に広場があった。こここそ、新別府駅の開設を見越して建設された駅前広場に違いない。

駅前


経緯を知っているだけに「ようこそ別府へ」の文字が物悲しい。いや、めじろんが誕生したのは別府で国体が開かれた2008年だから、彼がそのことを知っているはずはないのだが。
駅前広場に降りてみると、両側を柵でふさがれた車道がめじろんの左右に構えていた。

棄てられた道

けっこう幅がある。2車線プラス路肩だろうか。広い中央分離帯をはさんだ4車線道路と考えれば駅へのアクセス道路として申し分ないであろう。
今は閉ざされた道のわきにある小さな道路を使っており、港大通りの名はどこへやら、といった感じだ。

脇道

港大通り

分断された駅跡地

先ほどの広場からもう一本通りを渡ると、駅跡地に新設された踏切に着く。

吉弘踏切


吉弘踏切という名のこの踏切は、新別府駅予定地の東西に存在する道路を結ぶべく設置されたもので、駅予定地を真っ二つに分断している。これによって、新別府駅建設は不可能となったと言われている。
踏切の奥を覗いてみると不自然に盛り上がった土地が見える。ホームの建設用地であろう。

ホーム


駅の北側からは大通りが伸びているが、やはりここも通行量が少ない。この道路は新別府駅明礬線といい、新別府駅建設計画があったことを書面上で伝える唯一のものだ。名のとおり新別府駅と明礬温泉を結ぶ計画であったから、すべてが滞りなく進んでいれば鉄輪温泉や明礬温泉といった別府市北部の温泉街へのアクセス道路として十二分に機能していたことだろう。

西口広場


新別府駅明礬線


恐怖の踏切

駅建設の痕跡がないかと駅西側をうろうろしていると奇妙な箇所を発見した。

謎の道跡


実は、現在使われている吉弘踏切は踏切の設置当初から存在しているものではない。吉弘踏切が設置された当時、駅の計画がまだ残っており、踏切は予定地の端にこじんまりと建設された。が、踏切は狭く事故が多発したために、駅の計画が消えたあとに駅予定地の中央に広い踏切を設置したのである。
この不自然な道跡はその痕跡に違いない。ご丁寧に一時停止線まで残っている。

旧吉弘踏切


一時停止線


線路の向こう側は、と覗いてみると、一時停止線こそ見えなかったものの明らかに道路と思われる舗装があった。

旧吉弘踏切向かい側



一応海側の探索もしたが、これといった痕跡は見つからなかったので、ネットで見つけた往時の吉弘踏切の写真を掲載する。

旧吉弘踏切海側


よくこんなところを自動車が…
そんな言葉しか思いつかない。

本当にこの駅はなくていいのか

新別府駅の構想は消えてしまったと書いたが、それで本当によかったのだろうか。別府国際観光港は"国際"の名こそ詐称(今のところ定期の国際航路はない)なれど、四国への航路などまだまだ活躍中である。鉄輪温泉方面へのアクセスとしても有用ではないのか。そう思う。
普通列車が停まるだけの小駅でいいから建設してほしい。1時間に1本程度大分~日出を走る列車があれば利用価値は十分にある。
ちなみに駅中央を貫く"新"吉弘踏切であるが、これは廃止して立体交差にするのが望ましいと思う。駅の両側は別府駅移設に備えて広い道路用地が用意されているし、踏切への勾配は車に悪いだろう。

坂



高1でありながら支離滅裂な文章と非常に甘い調査で申し訳ありません。最後まで読んでくださったことに深く感謝申し上げます。
―おわりー

筆:あいの風宇奈月ライン (高2)