えんじゅ:139号

中国修学旅行

                 (10月19日〜24日、10月20日〜25日)


上海コース別研修 〜五月女 〜
 上海、豫園にて

今年度大きく変わったことは、 上海でのコース別研修が実施されたことである。 中国二千年の歴史を見るには「西安」、 五百年は「北京」、現代は「上海」 と言われるように、バランスよく 中国を捉えたいとの思いが沸いた。

上海の変化は目まぐるしいものがある。 もともと租界時代から西欧文化に影響された土地柄でもある。 最近は、改革開放政策により急速な発展を遂げている。 1984年に初めて、虹橋 地区に経済技術開発区が設置さ れ、続いて浦東地区開発が行な われている。旧市街地もここが 中国かと思わせるような、想像 も出来なかった光景が目の前に 広がる。「里弄」と呼ばれる長 屋は、取り壊され、公園や近代 的な住宅になりつつある。

 1978年廃止された人民公 社は、人民政府(郷・鋲は地方 行政単位)として大きく性格を 変えた。「七宝」鎮への家庭訪 問は、日本との生活や制度の相 違が理解できるとともに、大都 市の中にこんなにも畑が存在 し、食料を供給していることが わかる。他の大都市にはあまり 見られない。

 大河ドラマ『大地の子』の舞 台となった宝山製鉄所は、輸入 鉄鋼石利用の長江河口に建設さ れた中国最大の製鉄所である。 ここまで来ると長江は海のよう で、その規模に圧倒される。

 西安から上海への航空便は、 早朝便と夜便しかない。日程が 延長できない事を考えると西安 五時起床というハードスケジュ ールは下見の時に決まった


中国と日本 〜2年A組 岩田〜
 西安華清池、楊貴妃と

 数々の「自調自考」研修の集 大成として、今回中国を訪ねた。 自分で見学コースを選び、北京、 西安、上海の三都市を巡った。

 最大の衝撃は、北京郊外の 「中国人民抗日戦争記念館」だっ た。日本軍が満州事変以後の十 五年戦争の中で、二、三十万人 もの罪なき人々を殺した、いわゆ る南京大虐殺。話に聞いてはい たが、実際に展示を見て、今ま での認識との較差に愕然とした。

 展示品には、日本語の説明も 添えられている。読めば、「中 国軍は勇敢に戦った」「激戦を 繰り広げた」「英雄たち が・・・」と、どれも中国軍の 奮闘を賛えている。だが、展示 された写真が物語るのは、例え ば、電線に吊された生首。振り 落とされる白刃を待つ中国人。 更には、屍と記念撮影する日本兵の 笑顔。その残虐行為に驚くとともに、 中国の人々の無念さに胸が痛んだ。ふと、広 島原爆の惨劇が甦ってくる。犠 牲者が約十四万人というから、 日本軍は南京に原爆を一つ二つ 落としたに等しい。いかに中国 を苦しめたか、このことからも 伺える。日本では原爆の被害者 意識ばかりが先行しがちだが、 この南京大虐殺のことも視野に 入れるべさだと思う。

 八達嶺より、万里の長城

 中国は早くから列強の勢力拡 大のための標的とされていた。 第一次大戦中、欧米列強の中国 侵出が緩んだところで、関東軍 は一気に中国へ侵攻し、虞溝橋 事件を契機に両国は全面戦争へ と突入していった。中国は「抗 日」を唱え続け、西安事件を転 機に、国を揚げて日本に立ち向 かった。それ以上の植民地化を 防ぐために必死だったのだろう。 また、中国には伝統的に、中国 が世界の中心であるという意識 (中華思想)があり、他国の侵 略には特に敏感だったのかも知 れない。日本に占領されてしま った屈辱に、拍車をかけるよう なこの南京大虐殺。その時生じ た、日本という国に対する憎悪 怨恨の念は計り知れないものだ ったと思う。

 館内にいた大勢の小学生に は、数々の悲惨な写真がどう映 ったのだろうか。懸命にメモを 取る子の姿が目に浮かぶ。思わ ず、日本についてのイメージを 尋ねてみたい衝動に駆られた。 今や、過去の悲劇など忘れ去ら れたかのように、日中は友好な 関係となっているが、過去の過 ちは決して忘れてはならないと 思った。

 北京や西安はかつての歴史の 中心地であり、上海は現在の経 済の中心だと言えよう。今回訪 ねたのはわずか三都市ではあっ たが、中国の広さ、探さのみな らず、凄まじい近代化の波をも 見聞することができ、改めて 「偉大なる中国」を実感した。


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平成12年(2000)12月18日改訂