1月9日(火)「自調自考」を考える 第306号

 二千十八年、平成三十年、暦注の干支では、戊戌の年となる。戊は音読みで「ぼ」。今年は明治政府軍と旧幕府軍の「戊辰戦争」(一八六八~一八六九)一五〇年目の戊の年である。「戊」は十干の一つ。十二支の一つである戌は戊と酷似している。要注意。紀元前十七世紀ころ、中国に起因する哲理として陰陽五行説がある。これを年、月、日に当てたものの大きな柱となるのが干支である。古代中国の考えでは万物を「陰と陽」の二つの要素に分け、全てを「木火土金水」の五要素からなるとした。面白いことに、古事記(七一二)には十干十二支は見いだせないが、少し遅れて作られた日本書紀(七二〇)には出てくる。そのころ中国からの伝来が使われるようになったのか。
 暦注とは暦に記入される事項の意味だが、外にも天象、七曜、二十四節気などがあって使われる。暦と共に暦注も長い歴史を持つ。その国の文化を示すものとして興味関心を持ちたいものだ。
 日本では春夏秋冬の四季だけでなく、二十四の気という季節、七十二もの候という季節があって、旧暦のもとに暮らしていた時代には人々はそうした季節の移ろいをこまやかに感じとって生活していた。
 自然の流れに寄り添う旧暦のある暮らしは今の時代にも大切にしたい。身も心も豊かにしてくれるものに満ちている。
 季節は小寒、初候芹乃栄う。
 春の七草、せり、なずな、ごぎょう(ははこぐさ)、はこべら(はこべ)、ほとけのざ(こおにたびらこ)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)のひとつ芹がすくすく群れ生えてくるころとされている。
 初春の初子の今日の玉箒  手に取るからに揺らく玉の緒 万葉集 大伴宿禰家持
 自調自考の若者達に新年に贈る言葉として今年は「先行きの見通しのつかない混迷の世界の現状に対して、『教養を涵養しよう』」という言葉になろうか。
 プラトンの初期著作の中に『プロタゴラス』という名作がある。アテナイを訪れたソフィストのプロタゴラスとソクラテスとの論争がテーマとなっている。その中でソクラテスは若者ヒッポクラテスに学ぶべきものとして「専門技術ではなく…一般教養=パイディア=だ」と述べる。もともとギリシャ語の「子育て」といった意味しか持たなかったこの言葉はプラトンによって「哲学的含蓄を与えられ、西洋の教育理論の根本概念」の一つとなる。別の本でプラトンは「人間は死後残すものはその人の『性格』と『教養』である」と述べ、人にとっての「教養」の重要性を示している。
 一方、近現代は究極に発達した専門知を求める。デカルト哲学が求める学問に対する明晰性と厳密性がその要請に応え近現代を形作る。まさに専門知の全盛時代の現代は、世界中で支配的な近代における学問観から生み出されたものと考えてよいだろう。専門知の有用性は当然大切にしたい。
 しかし一方で「教養」と云われる一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的理解力や知識も、特にこれから重要になってくる。人文・社会・自然・芸術等の学習を身につけ、世界(自然と文化)の奥行きを感じることによって自己変容を遂げ、そこで見出すことの出来た力こそが多様で変化の激しい不安定な社会の中での「Authenticity(真正なるもの)」を把握する力(先行きを見通す力)となるのだろう。そして多様を認め寛容な自分を創造できるのだろう。
 自調自考生、どう考える。