7月19日(火)「自調自考」を考える 第293号

 七月、文月。八月、葉月。
 季節の移ろいを表わす二十四節気では、この時期を小暑、末候、鷹乃学を習うとして鷹の雛が巣立ちし一人前になる時期と重ねる。   学校は、小暑、大暑、立秋、処暑と云われる季節、夏休みに入る。この時期「子供より親が大事、と思いたい。」で始まる太宰治の最後の作品『桜桃』に因んで「桜桃忌」があるが、さくらんぼは初夏の季語にもなっている。江戸時代は桜干は白身の魚を開いて味醂醤油に浸して干したものを云った。桜桃が桜の実を示すものとなったのは明治以降のことである。
 このように「言葉」は表現であって動くもの、変遷していくものを留める役割をする。なぜ留めるのかというと、人間の「意識」は静止したものしか扱えないからである。「意識」が扱えるのは静止したもので、それを「情報」と名づける。
 よく学校で学ぶ目的を「心身の発達」という表現で表す。ここで云う「心」は「意識」のことで、日本の歴史のなかでは、身体を中心に考える時代と心を優先して考える時代が交互に現われたようである。想定するに、縄文、戦国時代は身体が先行する時代、平安時代、江戸から現代はほとんど心の優先する時代と云えよう。
 鎌倉時代前期の道元禅師が書くのは「身心」つまり身が上で心が下だが、江戸時代に入れば「心身」である。現代ではもちろん「心身」であろう。なぜなら人々は「心」を上にしているからである。
 戦国時代の侍はコンプライアンスを無視したに違いない。これを心を上に考える現代の私達は「乱世」と呼ぶ。
 この歴史の経過には善悪があるわけではない。問題はどちらを優先するか、それが時代によって違うということである。中世の武将太田道灌は、歌の心に無知だったことを恥じ、和歌の道を学ぶ。他方『明月記』の藤原定家は「紅旗征戎わがことにあらず」と書いた。平安時代、心の優先の時代のことである。
 この学校は六週間という長い休みに入る。一日ほぼ十五時間余。計六百三十時間、この時間をどう過ごすか。自調自考の生徒諸君は毎日の過ごし方の主導権を学校から取り戻し、一人一人が時間をどう使うかを決める夏休みに入る。実りある六週間にするのは君自身にあることをもう一回云っておく。国連の幸福度計画(人間開発指数)には「良い暮らしの要素を決めるのはあなた自身である」と表現している。
 「習慣は第二の自然である。(モンテーニュ)」「努力によって得られる習慣だけが善である。(カント)」。そして「若いうちは何かになりたいという夢を持つのは素晴らしい。しかし同時にもっと大切なこととして、いかに生きるかということがある。日々の行いを選び積み重ねること、その努力こそが良い習慣を身につけさせ、人生の行方を決める。(串田孫一、詩人哲学者、山の随筆が有名)」。
 これ等の言葉は誠に有益、有用、特に学校のない夏休み期間中、大変大切なことを伝えてくれている。問題は受け取る意識の主体である「身体」がつねに変わっていることによっておこることであろう。
 極端に云えば人体構成の分子は七年でまったく入れ替わってしまう。最も変化しつづける人間だからこそ、いかに「汎用AI(人工知能)」が発達しても人間が活躍することが出来るとの論拠になるのではあるが。
 そこで大切だと思ったことを留めおく役割をする「言葉」や「文章」を机の前に貼っておくことは、こう考えると意外に大事なのかな。
 自調自考生諸君、どう考える。