10月4日(金) 「自調自考」を考える 第321号

 九月、長月。日本の七十二候によると「白露鶺鴒鳴く」次候の時期。日本書紀にも登場する日本古来より親しまれている尾の長い小鳥の鳴く時期。学校では一学期のスポーツフェスティバルと対になる文化祭=槐祭=を迎える。
 今年のテーマは「Iʼm fine ENJU?」。テーマには「多様な視点を持った」「もう一度誰もが来たいと想う」「渋幕らしい」「おもてなし」「平成を越えるものを創る」という五つの意味を込めているという。「校樹」の「槐」の「上品」「幸福」といった花言葉、挨拶は人の心を爽やかにするものとの考えが伝わってくる。
 「グローバル化による人の移動は、単一の価値観で歴史を見返すことを困難にする」実感を持った若者達の悲鳴がこのテーマから聞こえてくるようでもある。
 「大きくかけ離れているものの中にさえ類似を見てとるのが、物事を的確につかむ人の本領なのである」(アリストテレス『弁論術』)という言葉の意味がいよいよ重要になる時代ということか。
 今や膨大な情報がサーバー上に蓄積され、インターネットは情報の収集効率や共有速度を格段に上げ、ただばらばらに若者達の前に差し出されている。当然大事な意見と瑣末な意見の判別はつきにくく、全体としては、どうも何も示してくれていないと思ってしまう。グローバリズムはこの混迷に一層拍車を掛けることになる。
 こんな状況のなか、特に若者達には一人ひとりの生きる姿勢が大事になってくる。自分は何にこだわり、何が気になっているかを自問しそこを起点に情報を探らなくてはならない。こうして初めて、サーバーに蓄積された情報に能動的にアクセスでき、自己決定権を自分の手に取り戻すことになる。
 これが、これからの世界に生きる人達の最も大切な権利=人権=であると考えている(基本的人権)。
 「槐祭」には2日間で1万5千人以上の来校者を迎え、例年通り「渋幕らしい」創造的表現学習共同活動が、多才多能のパーフォーマンスを生み出した。多くの印象に残るクラス展示の外、特に云えば「スーパーコンピュータ」(天文部自作)と「卒業生の話しを聞く会」だろうか。
 秋の野に咲きたる花を指折りかき
 数ふれば七草の花 一五三七
 萩の花尾花葛花撫子の花
 女郎花また藤袴朝貌の花 一五三八
万葉集山上臣憶良秋野花二首
 一人ひとりの生きる姿勢に一人ひとりがこだわることの大切さを述べてきたが、コンピュータが現実社会を数値化し、インターネットはその領域を拡大し、フェイスブックやラインなどの交流サイト(SNS)は人間関係を精緻に計算して文字や写真による手早いコミュニケーションを可能にしている現代では、なかなか一人ひとりの生きる姿勢にこだわり続けることがむずかしい時代と云わざるをえない。そこでヒントになるのが「歴史」であろう。特に人々が生きてきた軌跡を辿る「物語」の歴史は役に立つ。
 文学が自明でなくなった時代にあらためて文学とは何なのかを問う書物が出た。『物語創世』(マーティン・プフナー、ハーバード大教授著)である。楔形文字(四千百年前発生)からインターネットまで、語られるのは世界文学(歴史に残る沢山の人達の生きた軌跡)の歴史の旅である。世界史に残るアレクサンドロス大王の遠征がトロイア戦争の戦跡を経由したのはホメロスの叙事詩『イーリアス』が大王の愛読書であったからだそうだ。今更ながら歴史と文学の力が人に及ぼす影響の凄まじさを知った。自調自考生、今こそ良書を読む時か。