5月13日(金)「自調自考」を考える 第291号

 平成二十八年五月、立夏次候、蚯蚓出。
 五月、卯月。風薫る候。風薫るは、漢語「薫風」を和訓して作られた。
唐の詩人白楽天(772~846)の「首夏南池独酌詩」、
薫風自南至
吹我池上林
よりとったようだ。「薫風」と書くと、香りが風に乗ってやってくるような気がするが、もとの意はこの詩にあるように「南からの風」ということだけを意味したものであった。
 薫は「やわらぐ」の意で、平安朝の人々は「南からのそよ風」の意で使っていた。香る風の意味を持つようになったのは鎌倉時代初期になってからである。
風薫る 木の下道は過ぎやらで
花にぞ暮らす 志賀の山越え
藤原定家・続拾遺集
 ここでは花の香りを運ぶ風の意味で使われている。
また、日本文学史上『竹取物語』と『源氏物語』に至る中間的存在で叙情に富む作品として有名な古典『伊勢物語』(作者不詳平安初期)には、五月の季語「燕子花」に因む有名な和歌が入っている。

か からごろも
き きつつなれにし
つ つましあれば
ば はるばるきぬる
た たびをしぞおもふ

 日本列島は五月、花に満ちあふれ一年中で最も華やいだ時期となる。本校でも八重桜は葉桜の瑞々しい緑となりフェアリークラブの丹精こめた薔薇が咲きそろい、はなやかな季節を演出する。
 ところで、ここでラテン語クラシクスclassicusを語源とする「古典」について考えてみたい。二世紀以来、古代ギリシャ及びローマの代表的著述を意味し、転じて学芸上の大家の著述や巨匠の作品などを指し、後人の模範、典型となるべき価値の定まったものを古典と云うようになる。
 そして古典は「五百年後、千年後に爆発する一種の時限爆弾である。伝統とは単に先祖が作った型や技を踏襲することでなく、現代の行き詰まりを打開する秘術として用いることも含まれる。井原西鶴が『源氏物語』をリサイクルすることで、江戸町人文化の起爆剤としたように、古典には時代ごとに新たな息吹きを吹き込まれてきたのである。」(中沢新一、『日本文学の大地』)とあるように、古典とされる書物には、時代時代の求めを完璧に乗り越えることが出来るような優れた知性が豊かに秘められている。がそれを発見し活用するのは面白いが、そう簡単なことではない。多くの古典と云われる書物には、人類にとって宝物である偉大な思想(知性)が秘められている。然しその偉大な思想も、多くの人達によって時代時代において求められるその時代の価値判断にさらされ、いろいろな皿や器に盛られそれぞれの時代においてのその味が主張されてきてしまっている。
 そして殆どの人は、その思想の意味(思想の栄養素と云ってよいもの)を現代の価値にかかわるものだけの処を気にかけて終えてしまう。その為古典に秘せられている偉大な思想・知性も本当の処が気付かれることなく消えてしまう。
 正しく古典を読み解くためには人間の行動によってのみ人間を知ろうとする学問(歴史学がその典型)の方法だけではなく、「本居宣長の方法」と云われている「言語そのものと密着した人間心理の必然、その発掘」の方法が重要な役割を果たす。学問の究極の目的が本当の人間を知ることであるなら、行動と同時にその時代時代で使われている言語の意味を正確にすることが古典の解読には不可欠であろう。
 古典は熟読する価値がある。
 自調自考生、どう考える。