「自調自考」を考える 第335号

弥生。春分旧暦七十二候では初候、雀始めて巣くう。一年の季節の始まり春に因んで、一日の始まりを春暁と云う。万葉時代には、暁は「あかとき」と云い、平安以降、「あかつき」に変わったとか。
 『万葉集』巻八春の雑歌に、山部宿禰赤人の歌がある。

 明日よりは春菜摘まむと標めし野に  昨日も今日も雪は降りつつ

 私達は、昔から四季の変化を楽しみ、春は年の始めとあって、何とも云えぬ陽の光の有り難さを感じとり、春の若菜摘みの行事を楽しんできた。
 そして今年も春の訪れと共に、次代を担う若者達、自調自考生諸君が卒業、進級、そして入学など未来へ向かい新たな歩みを始める。然し今年は、世界中の人々が経験したことのなかった新型コロナウイルス感染症の「パンデミック」に苦しみ、対応に苦慮するという異常な困難に直面している。
 このような時、私達はまず、人類の歴史からこれから生き抜く為のヒントを探す。(リベラル・アーツの効用)
 三千万人に近い感染者を出し、五十一万余人の死者(第一次、第二次大戦とベトナム戦争の戦死者合計より多い数)を記録しているアメリカでは、当選直後バイデン氏は大統領就任演説で「日常を取り戻す」と誓っている。英国の著名歴史学者ニーアル・ファーガソンは「不安と動揺の時代、人々が求めるメッセージはいつも回帰です」と云う。
 然し本当にコロナウイルス流行前の日常に戻るのか。
 歴史は私達にパンデミックは新しい社会、日常を作り出してきたことを示している
 十四世紀、世界、主として欧州に猖獗を極めたペストで、当時の欧州人口の半分近くが亡くなったが、結果、教会(キリスト教)の権威が失墜し、人の力に対する信頼が昴ることで「ルネッサンス(文芸復興運動)」が興る。その結果、ボッカチオにより『デカメロン』が著述されて以降、小説は人の日常を綴る所謂「通俗小説」となる。又それ迄建物や壁に描かれていた絵が、「タブロー絵」と云われる持ち運び出来る額縁入りの絵の形態の方が一般的になる。
 人にとって、「社会」から学ぶ全てのことを「文化」と云うが、やはり「社会」が変わることによって人の「文化」も変わっていくのである。
 「コロナ感染」に対抗して「非対面・非接触型社会」を実現していかざるを得なくなるなら、確実に人間にとって大きな影響を及ぼす「文化」も大きく変わっていくであろう。どう変わるかは、まだ今の処わからないが。
 然し「変わる」が確実なら、「どう変わるか」に充分注意を払う必要がある。
 「変わっていく」ことについて、私が今一番気にしているのは、自由民主主義国家と強権国家(と云われている)の対立比較問題である。
 今の処「コロナ問題」については「強権国家」と云われる国々の方が、有効に対策が取れているように見える。然しここで人類が簡単に「自由民主主義」を放棄して「強権国家」に移行すべきと考えるのは全く間違いであると考えている。考えなければならない多くの問題があるが、ここでは「自己決定・自己選択」を大切にする「自由」について考えてみよう。
 まず、政治にすべては期待しないという健全な「懐疑心」を持つことが大切である。その上で、自由主義とは、そのアイディアもさることながら、むしろ、おおらかな気性、(Liberal Sentiments)と呼ぶべき気質にその理念体系の強さがある。学問・研究に必須な「広い視野、冒険心、再挑戦、変わり者、寛容」といった気質は「自由」から芽生えるものだ。
 自調自考生諸君、どう考える。