「自調自考」を考える 第352号

三月、弥生。この時期、学校では三十八期生を送り、新入生を迎える準備に忙しい。
 旧暦では、雨水、草木萌動。冬の間に蓄えていた生命の息吹が外に現れはじめる季節。春の花木の代表的花は、梅、桜と桃であろう。奈良と平安時代の和歌や物語に登場する花は、圧倒的に梅が多く、次いで桜と桃か。『枕草子』には「木の花は、濃きも薄きも紅梅」をはじめとして梅が十五回も登場する。

 折られけり くれなゐ匂ふ 梅の花   今朝しろたへに 雪は降れれど
『新古今和歌集』春歌上 
宇治前關白太政大臣頼通

 日本では「匂ふ」は香りだけでなく色のグラデーションをも表現する。
 千葉県県花の「コルザ」菜花の緑黄色も目立ちだすころである。
 大学の学位授与式を「Commencement(開始)」と云うが、まことにこの時期は新しい世界に飛び立つことを祝う式典がふさわしい。

 ひさかたの 天の香具山 このゆふべ
  霞たなびく 春立つらしも
『万葉集』巻十 春雑歌 柿本朝臣人麿

 ところで、春は「本との出会い」の時期でもある。新しい本との出会いは、人を育て、世界を広げてくれる。
 毎年この時期、青少年読書感想文全国コンクールの入賞者が発表になる。今年も全国の小中高校と海外日本人学校から二九七万編を超える応募作品があった。
 ロシアによるウクライナ侵攻や環境破壊問題など現在の世界はさまざまな課題を抱えている。これらについて関心の高さを窺える作品が多かった。
 一方で、読書をきっかけとして社会への目が開かれた児童生徒の作品も目立った。
 ビクトール・E・フランクルの『夜と霧』(ナチス・ドイツの強制収容所から生還したユダヤ人医師の手記)を読んだ中三の生徒は、一片のパンを仲間に譲った収容者の存在に触れて、極限状況にあってもどのように振る舞うのかを自分で選べる人間の崇高な精神に衝撃を受ける。「誰かを幸せにするために尽力する生き方こそが心を満たすものだ」という文章は、本と向き合うことで、人は確かな成長を遂げることが出来ることを示している。
 「科学」が大好きな小学二年生は、普段はそれを表に出さずに「心の倉庫にしまう」ことにしていた。友人と話をあわせるために。昨夏、絵本『すうがくでせかいをみるの』(ミゲル・タンコ)を読んで、「すきなことを変だと思わなくていいんだな」と勇気づけられ、科学を愛する人達のイベントに参加し多くの仲間がいることを知る。そして「みんながおたがいのすきなこと」を大切にできたらいいと考えた。
 本との出会いは違う世界と触れあい、新しい自分を見つけていく窓口になる。「文学」を理解するとは、人を深く理解し、自分を発見することだ(自調自考は自分を見つけ出すことに努力することだ)。
 昨年十月、ウクライナ侵攻という暴挙を指導しているプーチン氏は有識者向けの「覇権後の世界-万人のための正義と安全保障」という講演で小説『悪霊』(ドストエフスキー)を引用し、ロシア的なるものの解説と西欧文明の行き詰まりを批判している。こうした動きに対して用意されねばならぬことは政治的なるものにかぎらず、「文学」的なるものの理解=人とはどんな存在なのかそしてその歴史意識と精神世界という問いに答えられるものが必要となろう。
 「文学的なるもの」と云ったが、偶然学園関係者からこの春、日本「文学」に衝撃を与える作家連が登場した。
 第百五十八回直木賞作家として渋幕二十期卒業生の小川哲さん。作品名は『地図と拳』満州という白紙の地図に夢を書き込むフィクション。数学者でもある小川さんによれば「コンピュータの基礎概念を提唱し、かつ同時にコンピュータが心を持つことがあるか」という哲学的問いを立てた人物アラン・チューリングの研究から始まった作家活動は「人間の内面」を描く面白さ、そして「人間とは」という問いに応えるものとなっていると云う。また渋渋二十二期高三在校生高野知宙さんが第三回京都文学賞を受賞し作家デビューを果たす。作品『ちとせ』は揺れ動く少女の葛藤と成長=人間を描いてみずみずしい。
 自調自考生、「文学」とは。考えてみよう。