「自調自考」を考える 第364号

 五月、皐月。旧暦では立夏、小満。季節は初夏、麦秋。そして六月、水無月、芒種。稲や麦など穂の出る植物の種を蒔くころ。稲の穂先にある針のような突起を芒という。
 風も爽やかな五月を送り、自然はいよいよ魅力を増す。環境省のサイトによると世界陸地の三割を占める森林(緑)の面積は減少傾向が続く。特に南米、アフリカが大きく減らしている。一方欧州やアジアの一部では、日本を含め植林活動が奏功し森が増えているそうだ。
 幕末期、開国早々の日本を訪れた欧米の人達は、日本の植栽の豊かさ、自然の美しさに驚き賛美している。日本在来の野鳥(六百三十三種)のなかで今は四十雀か。「ツィピーツィツィピー」と高く澄んだ声で鳴く姿をよく見かける。
 日本の文化は、この豊かな自然の変化を楽しんで作られている。

 あかねさす紫野行き標野行き
  野守は見ずや君が袖振る
『万葉集』巻一 額田王

 学校は、「保護者会」「教育後援会」等がはじまり新学年始動。新自調自考生を迎え、一層清新の気に満ちて動き出している。
 ここで気になるのは、今話題の「対話型生成AI」(ChatGPT,Google Bard等)の使用についてである。使い方次第で有益にも害を及ぼすものにもなってしまう。
 この生成AIの基礎にあるのは膨大なテキストデータで学習したLLM(大規模言語モデル)だ。それ故、今のLLMは大量のデータからルールを発見する帰納的なアプローチを得意とする半面、演繹的な推論や科学技術などで用いられるアブダクション(仮説推論)は苦手とされている。その為、この使用には常にAIが誤った答えを返さないよう他のシステムと連携したり、再学習の仕方やプロンプトと呼ばれる入力操作を工夫したりする必要がある。現在「アブダクションが出来るAIがいつ登場するか」が注目されているものなのだ。使用には充分慎重な態度が求められ、特に教育の場では安易に使用しないようにしたい。
 AIのような新技術を利用する際に必要なことを考える為に、アカデミー賞七部門受賞として今話題になっている映画『オッペンハイマー』に話を変えよう。第二次世界大戦中、原爆の開発に成功した「マンハッタン計画」を率いた天才物理学者ロバート・オッペンハイマーを主人公にした映画である。
 彼は一九六〇年九月来日している。来日講演は「科学時代における文明の将来」。博士は「自分は核兵器をこの世界から追放したいと思っている。が、どんな方法を使っても世界を二十年前に戻すことは出来ない。なぜなら人類はそのような兵器の製法を『知って』しまったからである。この知識を追放することは出来ないのだ。」と述べている。「知識」とは広義の情報の一形態といって良いであろう。
 現在の情報化社会の基本的仕組みを構成するコンピュータも第二次世界大戦期の米国で開発された。つまりは、核技術も情報技術(人工知能=AIの技術)もルーツは同じということである。そしてその技術は人類社会に予想もつかない大変革を生み出す力を持っている。
 オッペンハイマーは講演の最後で「現代は専門化の傾向が強くなったため私達を結びつける共通の伝統がむしばまれている。だから真理と平明さを調和させ、自分のよく知らぬ物事にも寛容と友情をもって接し、友人や他の人の言葉に全力をあげて耳を傾けることが必要なのだ。」と述べている。
 教養人でもあった彼は、問題の本質が科学技術を支える「専門主義」にあることを見抜いていたのである。生成AIに対する我々の考えもこのことに充分注意しなければならない。現在国連が人類社会の目標として「自由、平等、正義」を掲げ、人類同士のエンパシー(共感)を重要視するのはここに理由がある。
 『開かれた社会とその敵』(哲学者カール・ポパー著)第一巻「プラトンの呪縛」は「真理」も絶えざる検証の対象であり、せめぎ合いのなかでの一歩一歩の前進が人類の歴史であることを示している。
 自調自考生、どう考える。